名古屋無限景。

名古屋から始まる気まま歴史探訪。

名古屋に伊藤家あり。

「軍馬軍犬軍鳩慰霊碑」を調べるなか知った「伊藤次郎左衛門」。伊藤財閥に興味が湧き、色々掘り下げてみることにしましたp( ̄ー ̄☆(すっかり間が空きました、スイマセン)

 

松坂屋=伊藤。

名古屋では常識なのか⁈ウィキペディアによると、「地元市民の高齢層では松坂屋のことを「伊藤様」と呼ぶ人もいる」とか。なんと、知りませんでした。

 

さて、松坂屋はいつから始まったのか?

 

🔹織田信長の家臣(伊藤蘭丸祐広※)

   ※織田三蘭丸の1人Σ( ̄△ ̄;

🔹本能寺の変ののち浪人30年(祐広の子、祐道)

🔹清洲越しにより名古屋城下へ移ったのを機に呉服小間物問屋を開業。(初代祐道となる)

 

尾張藩御用達商人、三家衆筆頭となり実に度重なる災害や経済情勢、戦争などの困難を乗り越え今に至る。まさに名古屋の代名詞のような存在…

 

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余談ですが、蘭丸なる用語が出てきたので戸惑ったのですが(笑)調べてみてまたさらに深く歴史を知りました…信長に仕えた小姓蘭丸は3人いたのですね。

ご興味のある方はこちらどうぞ↓

3人の蘭丸 | ヤマカン103のブログ

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伊藤家の歴史を読んだファーストコンタクトとして私が衝撃を受けた要素をピックアップしてみます。

 

①仏教の精神による経営

伊藤家には仏教精神を柱にした経営があった。

最初に示したのは5代祐寿(すけひさ)

先代の悲業の死(商売始めたあとから大坂夏の陣で出陣し亡くなる)から仏教を信仰し、二代目、三代目と共に剃髪得度・念仏三昧の生活を送った。

元文元年(1730)、「呉服小間物問屋」から「呉服太物問屋」へと切り替え開店したのを機に『経営理念』を示した。

一、仏教の精神による経営

ニ、倫理道徳と商法の一致した点で利益を得る

三、奉仕の精神(良品廉価、顧客第一、親切第一)

四、質素倹約

 

次に、13代祐良(すけよし)が安政大地震で被害を受けた直後、罹災店員に示した経営理念。(1850年代)

 

一、多人数は和合が第一

ニ、堅実な道を気長に辿って店の再興を

三、信仰心が大切

四、衆知を用いよ

五、人間平等

〝諸悪莫作 衆善奉公※〟を服膺精神とする。

※「諸の悪事を作す莫れ、衆人の善事を行う様にせよ、かくて自ら我が心を浄にせよ、是が諸佛の教えである」の意。

 

さらに、14代祐昌(すけまさ)によって経営理念は改められた。(明治34年/1901)

 

①〔主義〕百貨店として堅実な店風の発場、このため、実用商品を網羅、顧客の利便、名誉・信用・堅実経営を決意

②〔商品〕清新・善良な商品の廉価販売

③〔任務〕誠実敏速・万事顧客本位

(全文で43条とのこと)

 

現代では中々出てこない信仰心や奉仕、という言葉が純粋な時代だなぁと思います…。「衆知」という言葉がいいですね。ネットでこんなのも見つけました。

雑誌『衆知』|松下幸之助創設・PHP研究所の経営・マネジメント誌

 

さて、そんな先代の息吹を全て背負ったかのように登場したのが15代祐民

手広くやることに快く思わないかつての時代の考え方から脱却した祐民。

四男にも関わらず家督相続の白羽の矢が立ったことはやはり何かの命運だとしか思えない…。しかも何故だか祐民には仏教への出会いが不思議と重なるところに神秘的なものを感じます。

 

栄町の百貨店開店日(明治43/1910)にミャンマー人僧侶オッタマと偶然出会う。昭和9/1934にはインド留学生パルク・ハリハラン。

彼らと縁し祐民は1年間インド、シャム(タイ)、ビルマ(ミャンマー)の仏跡巡拝の旅へと出かけた。帰国後に手がけた別邸はその影響がそのまま出ている。

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聴松閣。インドの石窟と同じものが模写された地下室。

 

その後、同行者が撮影した全行程フィルムを使って、祐民は百数十回にもわたり全国各地で映写講演したそうだ。(映像悪くてすみません)

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何気なく行ってる松坂屋ですが…こうして今も栄える背景には、そんな仏教的利他心があったからなのかもしれません。

 

②災害被害

こんなにいつも全焼してていいのか⁈と読んでて驚きました。現代の感覚では一度の火事でも珍しく感じるのですが、なんと三代(11〜13代)の間に10回!です。

 

「類焼」という言葉が何度も出てくる。類焼とは他の家から移った火事。移されるなんてとんでもないと思っちゃいますが(- -;その度に伊藤家は早期に復活し営業を再開し挽回している。

 

災害時の対応について5代祐寿、13代祐良からの遺訓があり後世はこれに従っている。

 

一、天災地変の時はまず第一に店員を救え

二、次に恩顧を受けた顧客、即ち大衆を救って報恩感謝せよ

三、災害後には必ず復興景気が到来する。商機をのがすな

 

この遺訓が顕著に現れたのが「関東大震災」。以下、ネットの資料そのまま載せます。

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大正12年9月1日の関東大震災にも遺訓の精神は忠実に守られた。先ず全店員に給料3月分を前払いし、米・味噌・醤油・家具等生活必需品を配給して店員の救済を行った。次に類焼しなかった他の端社宅に仮営業所を設け、10月1日より全市に先駆けて奉仕的な廉売市を開設し、上野店跡でも11月1日より廉売市を開設した。更に東京市より依嘱を受け10月1日より市内10数か所に東京市設依頼雑貨臨時市場(移動市場)を設け、日用品の廉売を行った。この東京市の仕事は当初三越と白木屋に一切委託される予定であったが、両店とも壊滅的打撃を受けて断って来たもので、市民からは絶大な賞賛を受けた。仕入は名古屋本店からの現金で、新潟・関東周辺部・名古屋・京都で大量に手当をして上野店に送った。木造2階建本館工事は大阪で木組して船で輸送、12月10日には新築落成、百貨店では最も早い開店で、余りの盛況に“松坂屋は焼け太りだ”と陰口が聞かれたという。

……………………………

「自ら罹災していながら罹災者には米や見舞品、見舞金を贈る」精神で何度も立ち上がってきた経験から、これが復活のコツなのだと確信していたのでしょう…。

伊藤家は拠点別の連携がいつも素晴らしくそれで早期復興を可能にしているパターンばかり。現代の災害復興も幾度もの経験から他拠点連携を発達させてきていますが、伊藤家にはこんなところに生き残る力を日頃から蓄えていたのかもしれません。

 

③徳川家への御用金、献上金

火事と同じくこちらも、「いつも藩にお金を差し出してる」印象(-。-;

 

伊藤家は尾張藩の御用商人の最高位にあったので、その権限が商売に生きたわけですが、しかしその代わり藩への「御用金=利子付きの金貸し」「献上金=差し上げるお金」は凄まじい。尾張藩に非常に密着した関係であったことが他の財閥とは違うところのようです。

 

御用金・献上金一覧

  1.延宝8  (1680)祐正初御用金

  2.正徳3  (1712)尾張藩御用金

  3.正徳4  (1714)尾張藩       130両献上金

  4.享保3  (1718)尾張藩御用金

  5.文化3  (1806)幕府       1,500両御用金

  6.天保13(1842)幕府     40,000両

  7.弘化1  (1844)幕府          200両

  8.嘉永3  (1850)尾張藩 40,000両 三家衆

  9.安政2  (1855)幕府          500両

10.安政4  (1857)幕府        1000両

11.文久1  (1861)幕府            75両

12.慶応1  (1865)                 600両

13.慶応4  (1868)              4,500両

14.明治3  (1870)                 500両

 

これを見ても私はよく分かんないんですが^^;

現代のお金の価値に換算して仮に1両を10万円としますと、

 

130両×10万円=1,300万円の献上金

40,000両×10万円=40億円の御用金

 

全てをトータル計算するととんでもない額になりますね。国を支えている超大企業といったところでしょうか。

 

文化貢献

祐昌、祐民親子のコンビネーションを知ることで私も「伊藤様」になってしまった(笑)

 

祐民は小学校以降は自宅での個人授業であった。その科目は、

雅楽、龍笛、謡曲、茶道、狂言、漢文、弓道、茶道、和歌、国文学、書道…など。(参考:wiki)

 

龍笛の箇所が気になったので調べていたらこんなものを見つけた。

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日本音楽学会中部支部 第115回例会報告

「幕末から明治初期の尾張の雅楽」

〜前略

名古屋の呉服商松坂屋伊藤次郎左衛門家、名古屋東照宮祭礼における雅楽存亡の危機において力を発揮した。明治12年(1879)の名古屋東照宮祭礼舞楽に伊藤祐昌が参加している。同14年には、旧尾張藩士を中心とした士族と名古屋商人を中心とした名古屋市民の希望によって東照宮祭礼の存続が決定した。祭礼の存続は舞楽奉納の継承にもつながったと推測され、実際に継承を牽引したのは、楽人や商人、浄土真宗を中心とした僧侶であり、継承が可能であった背景には、江戸時代の遺産があったと言える。〜

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文化継承への情熱。

だから松坂屋美術館もあるわけだ〜( ´∀`)と美術館を調べようとウキペディアを開いてもっと凄いことを知ってしまった。なんと、

東京フィルハーモニー交響楽団は伊藤家が発祥

だった…Σ( ̄Д ̄lll;エー‼︎

現存する日本最古のオーケストラ東フィルは、明治44年「いとう呉服店少年音楽隊」からスタートしている。祐昌63才、祐民33才。

どんな経緯で生まれたんだろうなぁ。見事に大きく育ったものです。

 

名古屋はそんな地域貢献に力を注ぐ伊藤家に守られてきたんじゃないかなぁと思う。有難や。私たちも「衆知」の力で地元を支え合いたいものです。

 

参考文献: 

「江戸期 ・ 明治期における伊藤次郎左衛門家の企業者活動」

 

終🏯。